J. Sauvaget(1934)が1930年代の街路から復原した古代アンティオキアのプラン。長方形の格子状パターンであり,街区の大きさは,112m×57mとされる。この図は G. Downey(1961)にも引用されている。ここでは,CORONA衛星写真(1968年3月21日撮影)と重ね合わせている。

何よりも,この市はシュリア地方の母市で,この地方を治める王たちの館はこの地にあった。市は実力,規模の何れでもティグリス河畔のセレウケイアやエジプトそばのアレクサンドレイア両市にほとんど劣らない。勝利王〔セレウコス1世ニカトル〕はトリプトレモスの子孫たちをもこの市に住まわせたが,これについてはすこし前ですでにふれた。従って,この市の市民はトリプトレモスを英雄として祀り,セレウケイア市そばのカシオン山中で祭礼を催す。(ストラボン『ギリシア・ローマ世界地誌』16-2-5,飯尾都人訳,龍渓書舎)

それから,バルナバはサウロ〔パウロ〕を探しにタルソスに出かけて行き,彼を見つけて,アンティオキアに連れ帰った。二人は,まる一年教会で集まりをなし,多くの人々に教えた。このアンティオキアで,はじめて弟子たちが「キリスト者」と呼ばれるようになったのである。(『新約聖書・使徒行伝』11-25,荒井献訳,岩波書店)

さて,その規模と立地に話題を移そう。思うに,これほどの規模をもちかつ立地に恵まれた都市は,世界を見渡しても他に例がない。東にはじまり,高い二列の列柱が市を貫いて一直線に西に延びている。列柱の間は屋根のない街路で,すべて舗装されている。その長さ,そして面積を考えると,石畳を仕上げるには大変な労力を要したはずだ。端から端まで歩くのは大変なので,あなたは馬車の助けを借りたいと思うことだろう。全長にわたり,平坦かつ連続的であり,水流や丘陵にさまたげられることもない。(リバニウス『演説集』より演説11『アンティオキア礼賛』:A. F. Norman (2000) Antioch as a Centre of Hellenistic Culture as Observed by Libanius, Liverpool University Press, p. 46.)

オロンテス河畔のアンティオキアは,セレウコス朝シリアの首都であり,エジプトのアレクサンドリアと並び,ヘレニズム世界を代表する都市であった。また,ローマ時代においてもシリア属州の首都であり,皇帝が滞在することも多かった。南方8kmにあるダフネの泉から水道を通して供給される清らかな水が,この都市の居住性を高めていた。ヘレニズム時代のギリシア風植民都市がしばしば,まっすぐな大通りを中心として,それと平行・直角に街路を設ける格子状のプランで建設されたことは,J. Sauvaget(1934)の研究などで明らかにされている。ダマスカスやアレッポなど,それ以前からあるシリアの都市においても,このようなプランが施行された。