小方 登(京都大学名誉教授)
ここでは,2012年11月17日〜24日に行ったトルコでの調査の記録を衛星画像などとともに紹介します。調査は,科学研究費プロジェクト「衛星画像を利用したユーラシアにおける都市遺跡・歴史的都市の立地とプランの類型化」(基盤研究(C)課題番号23520951,代表者:小方登)の一環としてなされました。調査対象は紀元前4世紀後半のアレクサンドロス大王東征後に西アジアで建設されたギリシア・ローマ風の植民都市です。
アレクサンドロス大王東征を経て,紀元前4世紀末にはエジプトのプトレマイオス朝とならび,西アジアから中央アジアにかけて支配領域を持つセレウコス朝が成立します。セレウコス朝は,シリアのアンティオキア(現在のトルコ・ハタイ県)に都を置き,領域内に多くの都市を建設します。これらの都市は,まっすぐな大通りを中心に格子状の街路・街区を持つ計画的なプランに基づいていたことが知られています。ギリシア風計画都市の建設は,遠くアフガニスタンのアムダリヤ河畔にも及んでいました(アイ・ハヌム)。
この調査では,衛星画像や地形データを参考にしつつ,現地調査を通してギリシア・ローマ風の計画都市の立地とプランについて,検討しました。訪れたのは,アンティオキアとその外港であるセレウキア・ピエリア,そしてアンティオキア郊外の別荘地ダフネです。この研究の成果の一部は,小方登「古代都市セレウキア・ピエリアの立地と形態 ― 衛星画像と現地調査を通して ― 」(『地域と環境』第12号,2012年,77-88頁)として刊行されました。
【参考文献】
- R. Stillwell, ed. Antioch on the Orontes III: The Excavations 1937-1939, Princeton University Press, 1941.
- G. Downey, A History of Antioch in Syria, Princeton University Press, 1961.
- E. J. Owens, The City in the Greek and Roman World, Routledge, 1991(松原國師訳『古代ギリシア・ローマの都市』,国文社,1992).
- A. W. McNicoll with revisions and an additional chapter by N. P. Milner, Hellenistic Fortifications from the Aegean to the Euphrates, Oxford University Press, 1997.
- O. Erol and P. A. Pirazzoli ,‘Seleucia Pieria: an ancient harbour submitted to two successive uplifts,’ The International Journal of Nautical Archaeology, 21 (4), 1992, pp. 317 – 327.
調査対象地域の概要を示すLANDSAT画像(ETM+:2000年6月22日撮影)。 |
古代シリアの首都アンティオキア周辺の地形の概観。オロンテス川に沿う地域である。地形データは SRTM DEM から作成(高さを2倍に強調),LANDSAT衛星画像(1987年10月1日撮影)をドレープしている。 |
11月18日:イスタンブールで乗り継ぎ,夜にハタイ空港着。アンティオキア泊。
11月19日:セレウキア・ピエリアを調査。
セレウキア・ピエリアのCORONA衛星写真(1968年3月21日撮影)。海岸沿いの低地には,扇形をした波止場の跡が見える。市街の大部分は急な崖の上,丘の中腹にある。 |
←南から見るセレウキア・ピエリア。丘の麓および中腹に位置する。 |
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波止場跡の護岸に沿う城壁→ |
←崖上の城壁を目指す。崖の途中にある石棺。 |
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崖の中腹から南方を見渡す。手前には石棺の蓋→ |
←崖に穿たれた石窟墓。 |
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石窟墓の内部。半円形のへこみがある→ |
←崖の上の城壁。直方体の石積みとなっている。 |
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崖の上の城壁。左の写真の位置よりやや東。不規則な石積み→ |
←セレウキア・ピエリアの「トンネル」。 |
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「トンネル」の上流部→ |
←セレウキア・ピエリアの墳墓群。 |
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墳墓の内部→ |
←墳墓群の位置から南方を見渡す。 |
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地中海に沈む夕日→ |
CORONA衛星写真(1968年3月21日撮影)と重ね合わせた都市遺跡セレウキア・ピエリアの確認できる地物。 |
高解像度地形データAW3Dを利用して描いたセレウキア・ピエリアの地形モデル。衛星画像はSPOT7のもの(2015年11月13日撮影)。 |
11月20日:午前はアンティオキアの郊外,ダフネを見学。またダフネからアンティオキアに水を供給する水道の遺構を見る。午後はアンティオキア東南の山稜線に沿った城壁を調査。
←ダフネの泉。アンティオキアに清らかな水を供給していた。 |
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ダフネの泉。水は谷底に落ちる→ |
←ダフネからアンティオキアに水を供給する水道の遺構。 | ||
渓谷をまたぐ水道橋の遺構→ |
←アンティオキアの東南,シルピオス山の稜線に沿う城壁と櫓。 | ||
シルピオス山の稜線から見下ろすアンティオキアの町→ |
←アンティオキア東南の城壁。 |
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岩壁に彫られた《カロニオン像》→ |
アンティオキアのCORONA衛星写真(1968年3月21日撮影)。東北から西南に向けて旧市街を貫くように大通りが通っている。写真ではわかりにくいが,この大通りと平行・直角に格子状街路が敷かれていた。旧市街の西をオロンテス川(現アスィ川)が流れ,東の稜線上に城壁がめぐる。 |
J. Sauvaget が1930年代の街路から復原した古代アンティオキアのプラン。長方形の格子状パターンであり,街区の大きさは,112m×57mとされる。上のCORONA衛星写真のの上に重ね合わせた。 |
11月21日:午前はアンティオキアの考古学博物館を見学。午後はアンティオキア市内の街路などを調査。夕方,ハタイ空港からイスタンブールへ移動。
←ナルキッソス(水仙)とエコ(木霊)のモザイク画。考古学博物館。 | ||
ギリシア神話の大洋の神オケアノスのモザイク画。考古学博物館→ |
←アンティオキアの細い街路。 |
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古代アンティオキアの大通りに相当する街路→ |
11月22日:イスタンブール市内の考古学博物館などを見学。23日:イスタンブール市内を調査。夜,アタチュルク国際空港へ。24日:帰国。
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